朝の散歩(フジオのブログ)

日記、感想、創作など。

一人一宇宙(ひとり いちうちゅう)

こんにちは。

 

今回は日頃なんとなく思っていることを書きます。

 

 

 

去年くらいから、よく自分の中で「一人一宇宙(ひとり いちうちゅう)」という言葉が浮かぶようになりました。

 

音の響きも字の並びもそんなきれいじゃない言葉ですが。

 

しかも、自分の中から出てきた言葉なのに、その意味自体はまだ曖昧という…。

 

 

でも、きっと年々自分の中で「人間は一人ひとり、本当に!別々の存在」という認識が強まっているから生まれた言葉なのかなと思います。

 

※この認識が生まれる前に自分の中で前提としてあったのが「(私が生きてきた狭い世界では)他者と「共通点が多いこと」「同質であること」をすごく求められているような、自分自身も他者にそれを求めているような気がしてる」という思いです。

 

 

・・・

 

 

まず、人は一人につき一つ肉体が用意されていて、その肉体を誰かと交換することってできないですよね。(ですよね?)

 

で、私たちは自分に用意された肉体を使ってでしか、この世界を生きることができない。

 

その上で、この肉体というのは、共通点もあるけど、でもよく見ると1つひとつかなり異なります。外見ももちろん違うし、中身や機能なんてもっと違うように思います。

 

 

さらに、このそれぞれ異なる肉体で、多少の共通点を持つことはあれど、基本的にそれぞれ別の地域・時代・環境のもとで育つ。

 

そんな異なる環境で育ち、異なる肉体で生きる世界は、たとえ一時期同じ時間・同じ場所で過ごしたとしても、見えるもの・聞こえるもの・できること・感じることは全然違っているはずです、きっと。

 

だから、仮に複数の人間が同じ時間・同じ場所で過ごしたとしても、一人ひとりが別次元の世界(宇宙)で生きているようなものだよな、と思うようになりました。

 

(例1)ある二人が一緒に散歩しても、それぞれ目に留まるものが異なる(一人はすれ違う人のファッションに目がいき、もう一人は動植物に目がいく)

 

(例2)ある二人が一緒に音楽を聴いても、聞こえるものが異なる(一人はベースの音はじめバンドサウンドが気になる、もう一人はボーカルメインで聞いている)

 

 

 

 

 

 

そして、こんなに一人ひとりは別物なのに、実生活では「共通点が多いこと」「同質であること」をすごく求められるのは不思議だなと思います。

 

でも、それも仕方ないというか、生きるために無意識にやってしまっているのかなとも感じます。

 

基本的に人間は一人では生きられない生き物だと思いますし、集団を形成して生き延びてきた社会的な生き物だと思います(イメージ)。

 

集団生活ではある程度のルールをみんなが守らないと破綻してしまい、破綻すると、突き詰めると生きていけなる者も出てくる…。…そこらへんの都合から、共通点や同質であることが大事になってくるのかなあと。

 

だから「みんな一緒であろう」「これが“常識”だよね、“普通”だよね、“正解”だよね」と思い込んだり、自分(たち)と異なる(とジャッジした)人や文化などを本能的に・無意識に怖れ、攻撃・排除しようとしたりする人も一定数出てくるのかな、と思ったりします。

 

(国家や民族などのスケールだけでなく、職場や学校などの空間、誰かと一緒に暮らす家の中などでも)。

 

(下手に共通点もあるところが、認識をややこしくさせる原因になっているのかも)。

 

 

 

私が下手な文でウダウダ書かなくても、こんなことはもうとっくにあらゆる芸術やら物語の世界では語られ尽くされているとも思うんですが、なんだか実生活を通して改めて思い知って、たまった言葉をここに吐き出したくなった次第でした。

 

 

私自身にも上に書いたようなひとりよがりで排他的な側面があるんですが、ここで「一人一宇宙」の言葉があると、「そもそも一人ひとりが全然違う世界の住人で、それは良いことでも悪いことでもない。(ただ時として面倒なだけ)」と、少し大らか?諦めの気持ちが持てるようになりました。

 

これからも社会生活を送るために他者と分かり合う努力は最低限続けていかないととは思いますが、分かり合えない事を前提に、お互いが傷つかない距離感を保ちたい気持ちが強くなる今日この頃でした。

 

おしまい。