朝の散歩(フジオのブログ)

日記、感想、創作など。

さよならの作業

今年の梅雨くらいから今日まで地味にいろんな私物とさよなら、俗に言う断捨離的なことを継続的に行っていました。

 

と言うのも、実家が取り壊されることとなり、そこで保管していた(されていた)自分にまつわるアイテムを全部引き取ることになったのです。

 

アイテムは全部でみかん段ボール30箱くらい?もっと?、とにかく現在住んでいる部屋ではとても収納しきれない量でした。

 

自分が一人暮らしをするようになってから、倉庫代わりに実家に置かせてもらっていた漫画、ゲーム、CDなどは「今まですみませんでした〜!」と引き取りました。

 

これらは残すor売る・処分の判断がスムーズでした。あるあるだとは思いますが、自分の思い出の品を中古買取ショップで二束三文で買取ってもらうのは、なんだか切ないですね。

 

扱いに困ったのは一人暮らし前のアイテムです。小中高のアルバム・文集やら、保育園の時の名札やら工作作品やら保育士さんとの連絡ノート、中高の制服やら…。「こんな物まで残していたのか」と成長してから初めて見たアイテムも沢山ありました。

 

その中で印象深いアイテム3つについて

 

■ぬいぐるみ
生き物の姿をしていて、ふかふかで、愛されるためだけに存在しているような、こちらを見て微笑んでいるぬいぐるみたち。す、捨てづらい…!幼少期の相棒のようなぬいぐるみもいくつもあります。そうじゃないぬいぐるみもいくつもあります。

 

小さい頃は与えられたぬい全てを可愛がっていましたが、自身が成長するにつれ、見た目や触り心地の好みが出てきたのと、ぬいぐるみ自体への愛着も減っていったのとで、もらったぬい全てに喜べなくなっていました。

 

しかし親は良かれと思ってか私がある程度の年齢になってもぬいぐるみを買い与え続けました。愛着はないけど、親の善意を無視するような罪悪感で、そいういったぬいもこれまで処分することができませんでした。

 

とはいえ、思い出のぬいも罪悪感のぬいも、現在暮らしている狭い部屋では保管するのが厳しいので、今回が良い機会だと、ほぼ全てを処分することにしました。でも燃えるゴミの袋にさっさと入れることはできず、”寄付”することにしました。寄付と言いながらただ引き取ってもらっているだけなんですが。

 

寄付する前に全てのぬいぐるみを手洗いしました。ぬるま湯をためたおけの中に、おしゃれ着用の洗剤を少し入れて、ぬいぐるみを浸して、優しく揉み込んでいく…。すすぎも丁寧に(ぬいぐるみ洗濯のサイトを参考に)。思いのほか汚れがとれてスッキリしました。あとは乾かし切ったら最後に写真撮影して、配送用の段ボールに箱詰め。この作業自体が一種の別れの儀式のような感じがして、気持ちの割り切りができました。

 

あと、親から連絡があり「親自身が幼少期に欲しくても買ってもらえなかったもの(ぬいぐるみなど)を、大人になってから自分が楽しいから子どもに買い与えていた(意訳)」と謝罪(スーパーレア)され、それも気持ちが軽くなりました(※ちなみに私も欲しいものはあまり買ってもらえなかった。悲しみの再生産かな)。それで「よし、私は子供の頃にすでにある種の親孝行ができていたんだ!」と開き直り、ぬいぐるみ以外の”親の買い与えられた、私の趣味ではないが罪悪感で捨てられなかったもの”ともサクサクお別れすることができました。

 

 

■お手紙
「ぬいぐるみの処分を済ませた私にもう捨てられないものはないわ!」と意気込んで取り組んだ、残りのさよなら作業で、ダメだったのは手紙類でした。

 

保育園児の頃にクラスの子からもらった年賀状から、小学校の授業中に渡されたメモ用紙に書かれたちょっとしたメッセージ、習い事で知り合った隣町のお姉さんとの文通まで、”紙に、直筆で、自分宛に書かれたもの”はかなり残していたみたいです。

 

現在○○歳の自分にとって、小学生の頃の自分って、ある種の”他人感”があるんです。そんな小学生の自分とその友人のやりとりの手紙なんて、すぐ捨てられるでしょう〜と思っていたんです。

 

でもその客観的な感じが却ってダメでした。小学生ちゃん(当時の友人たち)の手紙のかわいらしいこと!文面も読んでみると「小学4年生でこんな優しい気遣いができるのね!」って感じでびっくりします。手描きイラストも今見てもかわいいと思える絵柄のものもありました。シールを貼ってくれている子も「あー、当時私は緑色が好きと言っていたからこのハートのシールも緑色なのかな」と相手の気遣いがうかがえたりして和みました。7割処分したろと思っていましたが1割もさよならできませんでした。

 

これらの手紙をくれた当時のお友だちのうち、95%が今現在どこで何をしているかも知らないし、きっとこれからも知る機会はないですが、みんな幸せに生きていたら良いなと思いました。

 

そう、95%は今はもう他人で、当時関わっていた期間もほんの数年とかなんですよね。クラス替えとか進学とかでそのうち連絡を取り合わなくなるような。しかも仮に今職場で知り合っても仲良くはならないだろうなみたいな、自分とタイプの違う子も多いです。でも、そんな短い付き合いの中で、この子たちは当時の私に優しく接してくれていたんだな、そういう優しさってありがたいなって、なんだか感慨深かったです。その時その時で周りの人が自分に優しくしてくれていて今の自分があることを忘れずにいようと思いました。

 

 

■写真
アルバム類も沢山あったので、これを期に見返しました。生まれたてのから保育園児、小中高生くらいまでの。大学生のもちょっと。

 

10年以上前の自分の姿なので、手紙同様、一種の他人感があってフラットな気持ちで眺めていて「お、自分は案外とかわいいじゃねーか!」と思いました。3歳くらいの、なんか知らんけど頑張ったり楽しそうに笑っている姿は、造形関係なしにかわいいもんだと思いました。記憶の中の自分はもっともっとブスだと思っていたので、再発見です。(ちなみに自分がピンで写ってない写真、集合写真や保育園の運動会の写真とかですと、そこそこかわいい自分の周りをスーパーかわいい天使たちが取り囲んでいるように見える(同級生)。みんなかわいい。)

 

・・・・

 

今回諸々のアイテムとさよならすることで、今後また過去を振り返りたいタイミングが来ても、もうできないのは寂しいです。とはいえ、現在の暮らしの快適さを優先したいので仕方なし!

 

それにしても過去の物と向き合うのもさよならするのもエネルギー使いますね。山場は過ぎたと思いますが、まだ途中なのでこれからもちょこちょこ進めていきます。

 

 

おしまい。